April 16, 2015

  • 夜のくもざる

    村上春樹著『夜のくもざる』, 1995, より

    夜中の二時に私が机に向かって書き物をしていると、窓をこじあけるようにしてくもざるが入ってきた。

    「やや、君は誰だ?」と私は尋ねた。

    「やや、君は誰だ?」とくもざるは言った。

    「真似をするんじゃない」と私は言った。

    「真似をするんじゃない」とくもざるは言った。

    「マネヲスルルンジャナイ」と私も真似をして言った。

    「マネヲスルルンジャナイ」とくもざるもカタカナで真似をして言った。

     まったく面倒なことになったなと私は思った。物真似狂の夜のくもざるにつかまると、きりがなくなってしまうのだ。どこかでこいつを突き放さなくてはならない。私にはどうしても明日の朝までに仕上げなくてはならない仕事があるのだ。こんなことをいつまでも続けているんわけにはいかない。

    「へっぽくらくらしまんがとてむや、くりにかますときみはこる、ぱこぱこ」と私は早口で言った。

    「へっぽくらくらしまんがとてむや、くりにかますときみはこる、ぱこぱこ」とくもざるは言った。

     そう言われても、こっちも口からでまかせを言ったわけだから、くもざるが正確に真似できたのかどうか判断はできなかった。意味のない行為だ。

    「よせよな」と私は言った。

    「ヨセヨナ」とくもざるは言った。

    「違うぞ、今のは平かなで言ったんだ」

    「違うぞ、今のは頃良かなで行ったんだ」

    「字が違ってるじゃないか」

    「時が違ってるじゃないか」

     私はため息をついた。何を言ったところでくもざるには通用しないのだ。私はそれ以上何も言わずに黙って仕事をつづけることにした。でも私がワードプロセッサーのキイを押すと、くもざるは黙って複写キイを押した。ぽん。でも私がワードプロセッサーのキイを押すと、くもざるは黙って複写キイを押した。ぽん。よせよな。よせよな。